
「4つの道場」って、実はとんでもなく深かった話
四国遍路の各県には、仏教的な意味を持つ“道場名”がつけられていて、これが実に深い。
- 徳島 → 発心の道場
- 高知 → 修行の道場
- 愛媛 → 菩提の道場
- 香川 → 涅槃の道場
最初の2つはなんとなくイメージしやすいんですよ。
「始めるぞー!」って気持ちで徳島に入って、「修行だぁ〜〜」って叫びながら高知を抜ける。
でもね、問題はその後。
菩提と涅槃。なんか急に仏レベルが上がった感あります。
読み方も「ぼだい」「ねはん」って急にありがたみも出てきました。
そして思います「それ、オレでもついていけるかなぁ・・・」って。
「四」が嫌われてるのに、仏教ではむしろめっちゃ使う話
そもそも日本では「四」は“死”に通じて縁起が悪いって言われたり、言われなかったり。
病院やホテルの部屋番号でも「4号室」がなかったりするくらい。駐車場もそれ。
でも仏教ではむしろ「四」は大事な数字なんだとか。
例えば…
四諦(したい)
四無量心(しむりょうしん)
四弘誓願(しぐせいがん)
…はい、いよいよ読めないの出てきましたね。でも全部大事(・・・ですがここでは省略)。
そしてこの「四国の四道場」も、仏教の修行の道を4段階で表したもの。
つまり、これは“歩く仏道修行”なのです。
◆ 徳島:発心(ほっしん)の道場
遍路のはじまり。
「よし、四国回ろう」って思った時点で、あなたもう発心済みです。
仏教でいう「発菩提心」ってやつで、悟りを目指そうという志のこと。
遍路では、1番・霊山寺から23番・薬王寺までがこの道場。
最初は荷物重いし、靴擦れ痛いし、道も間違えるし、
「え、これ88ヶ所とか全部は無理じゃない?」って思うかもしれない。
でも、その“思った瞬間”こそが、発心。
旅はそこから始まるのです。
◆ 高知:修行(しゅぎょう)の道場
高知に入った瞬間、皆が思うこと。
「……遠くね?」
札所と札所の間、数十キロ空いてるのがデフォルト。
道中は海岸沿いだったり山の中だったりで、ドラマチックだけど体力ごっそり持っていかれます。
仏教でいう「修行」とは、煩悩に向き合い、自分を整えること。
この高知では、“自分との対話”がいやでも始まります。
誰にも会わない日もある。雨の日もある。
でも歩く。黙って歩く。それが修行。

◆ 愛媛:菩提(ぼだい)の道場
修行を経て、ようやくたどり着いた愛媛。
ここは「菩提の道場」。
「菩提」ってのは、“悟りの境地”のことなんですが、
そんなにすぐ悟れるわけないですよね。そう。私は凡人。
でもね、この辺りでちょっと気づくんです。
「あれ、自分、変わってきてるかも」って。
・ありがとうって言われて、ちょっと泣きそうになったり
・風が気持ちよくて、足取りが軽くなったり
・見ず知らずの人が渡してくれたお接待が、心に残ったり
そういう“小さな悟り”みたいな瞬間が、愛媛にはいっぱいあります。
だからここは、菩提の道場。
◆ 香川:涅槃(ねはん)の道場
ラストは香川県。
「うどん県」とか言ってるけど、仏教的には“涅槃”です。「ん」しか合ってません。
涅槃とは、煩悩を完全に手放し、安らぎの境地に至ること。
…あ、うどん食ってる場合じゃなかった。
でも、88番・大窪寺に近づくにつれ、遍路者の表情が変わっていきます。
「ここまで来たな…」
「終わっちゃうのか…」
「ありがとう…」
その感情が入り混じった最後の一歩。
静かに手を合わせたその瞬間、
きっとあなたの心は、少し“涅槃”に近づいています。

◆ まとめ:意味がわかると、風景が変わる
仏教の言葉って難しくて敬遠しがちだけど、
ちょっとだけ意味がわかると、遍路道の一歩一歩に“物語”が宿ってくる。
- 発心 → 決意したあの日
- 修行 → 無言で歩いたあの海岸
- 菩提 → 誰かの言葉に涙した夜
- 涅槃 → 静かに深呼吸した最後の札所
88ヶ所を通して、人生をなぞるような旅になる。
次に四国を歩く時は、ぜひこの「四つの道場」を心の中に持って歩いてみてください。
遍路が、もっと深くて、もっと豊かになるはずです。
ではでは。
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